武士の絵画(文人画)

渡辺崋山「鷹見泉石像」

「なぜ武士であるにもかかわらず、画を描いたのか?」これが私自身における最大の関心事といってよい。これまで、この素朴な疑問に基づき、江戸時代に「南画」あるいは「文人画」と称された絵画の制作背景を、浦上玉号、関口雪翁、田能村竹田、渡辺崋山などの研究を通じて解き明かしてきた。  中国明清絵画の影響を受け、江戸中期以降に隆盛した「山水画」や「四君子」などの絵画を「南宗画」「文人画」と呼び、それを描いた画家を「南画家」「文人画家」と称した。彼らの多くは職業画家でなく、武士や漢学者として幕府や諸藩に仕える身でありながら、余技として作画を楽しんだ者たちであった。一見、「画人」と「武士」は背反するようにもみえるが、どのような考えを有しつつ中国の思想や文芸観を享受し、なぜわざわざ中国絵画に倣って描いたのか、その共感と理解に関する精神的背景を今後も考察し続けていく。

京都の絵画

伊藤若冲「仙人掌軍鶏図」

京都で生まれ育ったあと、東京の早稲田大学で学んだ私は、江戸時代の絵画史を専門として研究を続けている。早稲田大学の美術史も東北大学と同様、2年次から各専修に別れるが、その際に美術史を選んだ理由は、生まれ育った京都と進学した東京の間における文化性の違いに衝撃をうけ、改めて自身のアイデンティティを見つめ直す意味があってのことであった。その後、江戸で活躍した画家にも対象を広げ、京都と江戸間に存在する文化性の違いを意識しながら論考を発表してきた。そこで明らかになったのは、京都や江戸で活動した画家であっても、出身は東北や越後、四国や九州の者が少なからずあったという事実である。若かりし日に地方から京都や江戸へ出て修養し、その後は地元へ戻り、習得した技術を生かしつつ人生を送ったのである。その遊学期間中、彼らは画を学ぶのみにとどまらず、そこに集った文化人たちと交流を持ち、地元にはない最先端の教養をも習得した。けれども、彼らがみな同じ色に染まり、地元に戻っても京都や江戸で流行する絵画と同様の作品を描き続けたわけではなかった。地方で生まれ育った環境のなかで独自の感性や嗜好を獲得し、京都や江戸で学ぶ過程においてもそれに応じて取捨選択が働いたのに加え、戻った地元にあってはそのニーズにあわせ、習得した画風を変容させることもあったからである。

東北の絵画

伊藤東駿「耕作図屏風」

江戸時代に活躍した東北の画家たちにおいても、出身地域や身分階層によって育まれた感性や嗜好などのアイデンティティが、いったいどのようなかたちで作画活動に反映しているのか?という問題に意識を置きつつ、研究を行う予定である。

展覧会 東北の画人たち リンク

https://www.tohoku-gajin.com/